イスラムフォビアとメディアのムスリム女性の描き方:米国ニュースに関するテキスト分析

2017年にInternational Studies Quarterlyに掲載されたJ Furman Daniel, III Paul Musgrave. (2017) "Islamophobia and Media Portrayals of Muslim Women: A Computational Text Analysis of US News Coverage"を紹介する。本研究は、アメリカ・メディアのニュースの内容に関して、テキスト分析を行なっている。

 

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研究の背景

研究の内容に入る前に、簡単に研究の背景にふれておく。アメリカにおいてムスリム嫌悪が顕著になっている。最も典型的な解釈は、イスラムフォビアイスラム教やその信者に対する嫌悪や偏見)をテロリズムとの関連で論じるものであろう。実際に、研究では多くのメディアはテロリズムをはじめとする政治的暴力とムスリムを結びつけて発信してきたことが指摘されている。

 

The Arabs and Muslims in the Media: Race and Representation after 9/11 (Critical Cultural Communication)

The Arabs and Muslims in the Media: Race and Representation after 9/11 (Critical Cultural Communication)

 

 

また、こうしたメディアによるムスリムの描写は世論にも影響を与えている。世論データでも、人々の間でイスラム教と「西欧的価値観」(寛容や自由、平等、市民性など)が両立できないものとする見方が増長してる (Powell 2011)。さらに、人々がイスラム教に対して文化的に異なるものとして認知するようになると、よりネガティヴにムスリムを捉えやすくなることも指摘されている (Ciftci 2012)。

 

イスラムフォビアと生み出されたオリエンタリズム

 そもそも過去30年に渡って、多くの研究で西欧によるムスリムや中東の文化、社会、宗教の描き方に対して批判が行われてきた。その先駆けともいえるのが、エドワード・サイードによる『オリエンタリズム』である。

 

オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー)

 

 

イードは、文明的な「西欧」と野蛮な「東洋」の二元的に表象するものとして、「オリエンタリズム」を批判した。そして、「オリエンタリズム」言葉は単なる西欧と東洋の二元性を表象にとどまらない。サイードにとって、「オリエンタリズム」は西欧の文化的・政治的優越性を生み出し、近代化という名目のもとに、ムスリムの土地を植民地化する正統性を付与するものに対する批判があったことは有名である。

9.11テロ以来、テロとの戦いや関連する政治的発展の中に「ネオ・オリエンタリズム」を見出す研究者たちによって、オリエンタリズム研究は再び勢いを取り戻してきている。アメリカ・メディアの言説は、中東やムスリム社会を西欧と対比しながら、「女性蔑視」的なものとして描いていると指摘される (MAHMOOD 2006)。また、アメリカ・メディアの言説は、性的に自由で解放された西欧の女性とムスリム女性を対比する傾向がある。このような二項的な見方は、西欧のフェニミストが、ムスリム女性を抑圧的な宗教や文化、伝統から「救出」するための正当化に用いらているという。したがって、オリエンタリズムの再生産の中で、アメリカ ・メディアがムスリムに対して「女性嫌悪」という表象を与え、ムスリムに対するステレオタイプ—非文明的で野蛮であり、西欧的価値にとっての脅威—を強化してきたと主張されてきた。


研究目的


では、以上のようなオリエンタリズムの主張が事実であるのか?どのように確かめればいいのか?

 

本研究の目的は、「文化的脅威」、すなわち、ムスリムに対する「ジェンダーギャップ」や「女性嫌悪」といったステレオタイプを伝搬するメディアの影響を明らかにすることである。筆者は、過去35年間の『タイムズ紙』および『ワシントンポスト紙』の「海外の女性」を報じるニュースに関して、機械学習に基づくテキスト分析を行った。その結果、アメリカ・メディアの報道には「確証バイアス」と「フレーミング」の影響があることがわかった。

 

①確証バイアス

アメリカ・メディアの報道では、女性の権利が蔑ろにされているような社会的な記述において、「ムスリム女性」が取り上げられる傾向にある。他方、「非ムスリム女性」は、女性の権利が尊重されている文脈でしか記述されない傾向にある。筆者によれば、このようなメディアの報道は「確証バイアス」があるという。換言すれば、アメリカ・メディアの報道では、「ムスリム女性は女性の権利が侵害されるような社会に住んでいる」という信条を支持するような記情報ばかりを収集し、それを反証するような情報を無視する傾向があるということである。そして、「非ムスリム女性」は男女平等や女性の権利尊重と結びつけられて報じられている。

 

しかし、上記の結果を評価す上でいくつか懸念点もある。

  • 政治体制による影響が推定結果を過大にしてしまう可能性。

女性のニュースは他のニュースと比べ、より多くの個人的な取材や現地取材を必要とするかもしれない。しかし、ジャーナリストが言論の自由報道規制が敷かれているような権威主義体制の国で報道を行うのは難しい。そのため、限定的な報道の中での「女性についての報道」は、その国の政治体制や報道環境の受けて、「ステレオタイプ描写」がされやすい可能性がある。つまり、政治体制とそれに付随する報道環境によって、「女性についての報道」と「ステレオタイプ描写」の関係を過大に推定してしまいかねない。この可能性を考慮して、筆者は回帰分析の際に、統制変数として民主主義指数(PolityIVデータセットのPolity2を使用)を投入している。

  • 政治的安定性が推定結果を過大にする可能性

同様に、国内混乱や暴動が頻発しているような国の報道環境が原因で、「女性についての報道」と「ステレオタイプ描写」の関係を過大に推定してしまうかもしれない。そこで、筆者が政治的安定性も統制し、分析を行なっている。

 

フレーミング効果

アメリカ・メディアは、ムスリム社会を報じる際に、特定の女性の権利の問題やジェンダー差別の問題に絞る傾向がある。このようなフレーミングには、次の2点の説明が可能である。第一は、「内集団バイアス」(内集団びいき)による説明である。つまり、ムスリム社会が非ムスリム社会よりもより差別的に捉えらようとするバイアスである。第二は、inter-reality biasである。実際には、女性の権利保護やジェンダー規範が比較的よく遵守されていたとしても、イスラームの国を取り上げるトピックは、より構造的な男女格差を際立たせるようなコンテンツ化されてしまう傾向がある。

 

筆者は以下の分析上の懸念的言及している。

 

  • 女性の権利に対する国家の保護レベルが推定結果に影響してしまう可能性。

 

例えば、人権保護の程度が低い国は、より多くの報道がその国の人権状況を受け取るやすくなる。そのため、筆者は、国家の人権保護のばらつきも統制した上で、推定を行なっている。

 

以上から、筆者は「女性についての報道」と「ステレオタイプ描写」の関係を推定する上で、女性が報道される海外の国の「政治体制」や「政治的安定性」、あるいは人権保護の程度の影響も考慮している。これらの影響を差し引いた上でもアメリカ・メディアの報道には「確証バイアス」や「フレーミング」があることが統計的に確認できるという。

 

 

結論

 

どのような社会も男女差別に晒されないというわけではない。しかし、本研究が明らかにしたのは、アメリカ・メディアによる女性やその権利の描写の仕方には偏向があるという事実である。ムスリム女性が「報道価値」のあるものとなるのは、ムスリム社会で彼女らの権利が侵害されているという文脈に基づいている。それゆえ、アメリカ・メディアの報道には確証バイアスの疑いが濃厚である。

 

また、アメリカ・メディアが女性の権利に対してグローバルに気を払う事に対しては限定的である。しかし、ムスリムや中東の国々の女性の話題に限っては、「女性の権利を侵害している社会」がニュースの中心的な位置に占める。この事実は次の示唆を含む。すなわち、メディアの関心やリソースの動員が不公平に偏っている限りにおいて、たとえアフリカやアジア、ラテンアメリカ、あるいはヨーロッパの国々の「非ムスリム」女性の権利が甚だしく侵害されていたとしても、メディアの脚光を浴びないということである。

 

以上のようなアメリカ・メディアのムスリム女性に対する偏向は、ムスリムのコミュニティ内の男女平等の目標に対しても逆効果であるかもしれない。「ムズリム女性の受ける抑圧」への不適切な焦点の当て方は、ムスリムの男女間でも不信や猜疑心を助長しかねない。名指しを受けるのに嫌悪したムスリムはフェニミズムの批判と帝国主義イスラムフォビアを同一視してしまい、ムスリム社会から自発的に始まる男女平等のための動きが阻害されてしまう可能性もあるのである。