『私たちはどう生きるべきか』を読んでの雑感:倫理的な生き方とは?

年末年始に帰省した際に、実家の本棚を整理していると一冊の本が目に止まった。ピーター・シンガーの『私たちはどう生きるべきか』(原題:How Are We to Live?: Ethics in an Age of Self-Interest)だ。

 

私たちはどう生きるべきか (ちくま学芸文庫)

私たちはどう生きるべきか (ちくま学芸文庫)

 

 

以前、何度か読んでいるのであるが、個人的にも、ちょうど「自分の取り組んでいることが社会にどういう影響をあたえるのか」、あるいは、「社会のために力を尽くしたいという考えは自己欺瞞なのか」といった自問自答のさなかにあったところであるし、本書を改めて読んでみると、幾ばくかヒントを得られたように思える。

 

 

 

本書は、書名の通り、「私たちはどう生きるか」について倫理な実践を説いた本である。著者のシンガーは、倫理学者で、功利主義生命倫理における理論的な貢献もさることながら、環境保護や動物保護、そして自らも菜食主義を掲げつつ、アクチュアルな問題群に関して、運動を牽引してきたことで知られる。

 

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

 

 

 

平たく言えば、本書の主張は、次のとおりである。それはすなわち、①私利私欲の追求する現代の人類は、資源の消費や地球環境を無尽蔵に破壊し、持続の困難に直面している。また、②私益の追求は、幸福をもたらさない。そして、③倫理的な生き方とは、個人的な利益の追求ではなく、人類全体や動物全体といったもっと広い他の目標と自分自身が同一化することによって、人生に意義と充足感を与える生き方である。

 

倫理に関する本は数多と存在するし、この種の主張は、ありふれたものとして嘲笑されるのかもしれない。しかし、はじめて一読した際には、シンガーの極めて論理的で、精緻な議論の運び方に感銘を受けたものだ。シンガーは、現代における喫緊の環境問題の由来を述べつつ、主要な倫理・哲学思想への批判、あるいは、進化論、囚人のジレンマ、フェニミズムといった多種多様な議論から、論を進める。そして、私益と倫理の調和」を提唱し、倫理的な生き方がいかに社会にインパクトを与えることを明晰に説いている。

 

 

まず、私利私欲の人間の性を論じる上で、資本主義の話は避けては通れないだろう。私益を追求する人間の生き方の由来を説く上で、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に言及されている。シンガーは、私益を追求する人間の生き方の由来に関して、資本主義精神に特徴的な「財の取得のために材を取得する生き方」が倫理的に要請されている、という考えを引き合いに出して論を始める。そして、アダム・スミスの経済学の背景にある自然観を改めて問い直す必要性を指摘する。

 

物質的な意味での成功での成功という点で目覚ましい成功をおさめた人の中には、一生働いてそれなりの報酬を得ても、その報酬はいったん手に入れてしまうとつまらないものになる、という経験を持っている人も多い。アダム・スミスだったらこれを聞いてもまったく驚かないであろう。物質的な富による幸福の追求は欺瞞に基づいている。私たちにとって本当の利益は何かという観点だけ考えても、よい生き方に関する考えを変えなければならない強力な論拠がある。

 

私益を追求しても、人は充足感を得られない。加えて、現在の生態学的な情勢を考慮すれば、人々にとって、倫理的にいきることこそ、理に適っているのかもしれない。

 

シンガーの理論的背景は、『実践の倫理』に詳述されている。私利私欲の追求と倫理的な生き方を比較分析し、倫理的な生き方のほうが真の幸福、つまり、真の利益をもたらすことを論証している。

 

 

実践の倫理

実践の倫理

 

 

人々は往々に私益と倫理の間の葛藤の狭間にいる。 

私益を完全に否定するような倫理的な原則は、聖人にしか真似できないし、建前として形骸化してしまいかねない。シュバイツァーマザー・テレサのような人にしか実行できないような完全無欠な倫理原則が前提であれば、「自分は不完全であるから、それを実践するのはやめておこう」と、結果的に私益の追求を精を出すしかなくなるのである。そういった意味では、倫理と私益を架橋するような実践が必要である。

 

カントによれば、「 普遍的法則そのものをひたむきに守ろうとすること」だけが、道徳的行為の動機でなければならない。周知の通り、かの有名な「定言命法」である。発展途上国への寄付が、貧しい人を助けたいから、という欲求に基づいているのであれば、カント的立場においては、道徳的価値はない。他の人間を助けることが自分の義務であり、普遍的法則にそったものであると、動機付けれれて寄付をしなければ、道徳的行為をしていることにはならないのである。理性をもった存在として、道徳原則を意識し、それに畏敬の念を抱かざるえないのかもしれない。しかし、このような道徳原則は、欲求をもった身体的な自分の本性と対立を起こすと思われる。

 

そういった意味でも、私益と倫理ないし道徳原則を調和させて行くような考えは重要である。人間の本性とも親和的であり、それは人生の倫理的指針における実践性を高めると思う。このことは、自分の利益や社会の利益に対して、どのように向き合っていくかを考える上で重要なヒントなのではないだろうか、そんなことを考えた年末年始だった。